ユーゴスラヴィズム

映画「アンダーグラウンド」から読む世界の虚構!


3.ユーゴスラヴィズムとナショナリズム
 クストリッツァにバロックを自覚的に使わせた理由の一つに、彼が旧ユーゴの新しい住民、混血であったことが挙げられる。解体前の第二次ユーゴスラヴィアは、マケドニアやモンテネグロ、スロベニアなどの単一の(注1)エスニシテイムからなる共和国と、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどの、多かれ少なかれいくつかのエスニシテイムからなる共和国に加えコソボとボイボデイナの二つの自治州からなる連邦国家であった。つまり多数の民族が存在していたわけだが、父がムスリム人、母がセルビア人であるクストリッツァは、群小国家ではなく「ユーゴ」という祖国を持つ新人類であった。だからこそ彼自身にとって「アンダーグラウンド」は、「誰に忠誠を誓うべきか、誰の言葉を信じればよいのか、被征服者の言葉かそれとも征服者の言葉か」という自らのあいまいさを問い、表現する様式となったのであろう。
 混血化が進み、クストリッツアのような、群小国家ではなくユーゴを祖国とする新人類が数多くいたことは事実である。また、チトーの(注2)自主管理社会主義によって、「友愛と統一」という社会主義のスローガンのもとに「ユーゴスラヴィア人」という概念が作られてから、そのように意識する人たちも作り上げられてきていた。中にはその土地やそこで過ごした時間、習慣を愛するが為に愛国主義の旗を掲げ、民族を超えたイデオロギーに向かおうとするユーゴスラウヴィア人もいたであろう。
 その典型とでもいうべく男が、クストリッツアの登場させた<クロ>である。クロは第T章の「戦争」(パルチザン戦争)でナチス・ドイツ軍から空爆を受けた際、激怒してこう叫ぶ。
「俺の町をやりやがった、俺の町を。奴らをやっつけてやる!町をぶっ壊した奴らを!」
 この「町」とは、セルビアの首都ベオグラードを特別指し示しているわけではなく、「ユーゴスラヴィア」と置きかえられることが、「アンダーグラウンド」第。章「戦争」(内戦)のクロと一人の兵士とのやり取りから読み取ることができる。
 パルチザン戦争から50年経たベオグラードは、クロアチアとセルビアの内戦の戦火に覆われているが、ここでもクロはどこかの隊を率いてパルチザン同様の勇姿をみせている。そこで一人の兵士がクロに話しかける。
「隊長、質問が。」
「何だ、同志。」
「同志と違います。」
「俺も隊長ではない。」
「では、クロアチア人?セルビア人?」
「ペタル・ポパラ・‘クロ’だ。」
「どの隊に所属を?」
「自分の隊だ。」
「上官はいますか?」
「いる、祖国だ。このファシストめ。」
 これは、クロが自分の民族的ルーツなどは関係なく、いわばユーゴスラヴィズムを堅く信じ、ユーゴという国の為に戦っていることがわかる、象徴的なシーンである。
 旧ユーゴスラヴィア(ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国)は事実上、3つの内乱を経て解体、分裂することとなった。1991年6月25日、旧ユーゴの北部にあるスロベニアとクロアチアの二共和国が独立宣言を発した。これがユーゴスラヴィア民族紛争の始まりである。ユーゴスラヴィア民族紛争はスロベニア独立戦争、クロアチア独立戦争を経て、92年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言に端を発する、ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争に至って泥沼の紛争と化した。それぞれの民族が独立を切望するその背後には当然のことながら、民族回帰へのナショナリズム(この場合は民族主義)が働いていた。
 この内戦は、マスコミなどでよく言われているようなナショナリズム間の内戦であったのではなく、東欧史学者の小沢弘明がいうようなユーゴスラヴィズムという思想とナショナリズムという思想の戦争であったと考えられる。つまりクストリッツァやクロのような、ユーゴを愛し統一へ向かう人々と、それぞれの民族主義を蘇らせ、解体・独立へ向かう人々の戦いだった。この二つの思想は、ユーゴスラヴィズムの形成期以降ずっと並存していて、今回の内戦によってユーゴスラヴィズムの側が敗北したのである。しかし、ユーゴスラヴィアという連邦国家は、約50年もの間イデオロギーや宗教や民族を超えた一つの国家として多民族がまとまってきたのである。では何故、人々の中に確かなものとして根づくことが出来なかったのだろうか。それ程までに脆い人工的な創造物でしかなかったのだろうか。いや、そうではないだろう。まず「第1のユーゴ」は、第一次大戦後に建国された。ハプスブルク帝国支配化の南スラヴ地域、スロベニア、ダルマチア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナと、オスマン帝国からの独立を達成していたセルビア、モンテネグロ両国からなるものだった。これは当時独立していたセルビア王国の政治的、軍事的な力が高まり、南スラブ民族をひとつの国家にまとめようという考えによってなされたものだ。しかしこの流れは、19世紀に南スラブ諸民族が受けていた抑圧と、その抑圧に対する一部のインテリゲンチャを中心とした抵抗のなかで生まれたさまざまな事業の流れを汲んでいるものと考えられる。
 19世紀に見られた運動のなかには「イリリア運動」のように、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったスラブ系諸民族の最終的な独立を目標とする為、一時的な結集を目指すというものもあった。「ユーゴ王国」という新国家ができたことより、オスマントルコの支配を逃れてオーストリア・ハンガリー帝国の領内に避難していたセルビア人が同胞と統一することができた。また、スロベニア人とクロアチア人はそれぞれドイツ化、マジャール化(ハンガリー人の民族名)の脅威を受けていたため、19世紀には独立国家を形成できないでいた。よって、ユーゴ結集は外圧に対する抵抗の不可欠の要素だったということができる。
 また、「第2のユーゴ」統一を導いたパルチザン戦争も、ナチス・ドイツに対する抵抗闘争であった。1930年代に入りヒトラー率いるナチが覇権を握り、オーストリア、チェコに進出した。そして、ミュンヘン協定で国際的に侵略正当化の認知を受けるや、かつてのプロイセン領土やハプスブルク帝国支配地域の奪還と、中近東、アフリカへの進出への足場を築き、石油資源を確保する為にあからさまにバルカン進出をもくろんだのであった。各国がドイツ支配化に入るなか、ユーゴもツベトコビッチ政権がドイツから最後通牒を突きつけられるや三国同盟に加入した。この政権の裏切り行為は民衆の反発を買い、軍部がクーデターを起こした。これにヒトラーが激昂し1941年、ナチス・ドイツはユーゴスラヴ各民族国家を分断支配することになる。こうして、そうでなくとも民族紛争の絶えなかったバルカン半島は民族相互間の敵対が激しくなり、後に触れるが、ナチス・ドイツはそれを巧みに利用して支配に役立てたのだ。そこで、チトー率いるユーゴスラヴィア共産党を中核とする「人民解放パルチザン部隊総司令部」(通称パルチザン部隊)が、諸民族の同権・兄弟愛を絶対的な理念として立ち上がり、ナチを破って再び統一へと向かうのである。
 つまりこの場合も、ユーゴスラヴィアという連邦国家の樹立は、彼らのアイデンテイテイ―をはっきりと主張する道であったのだ。

                                            

Writing in Summer/2001
 
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