ユーゴスラヴィズム
映画「アンダーグラウンド」から読む世界の虚構!
はじめに・・・
1. メディア戦争
2. クストリッツァのバロキズム
3. ユーゴスラヴィズムとナショナリズム
4. 解体の謎
5. 解放への道
■註釈&参考文献
2.
クストリッツァのバロキズム
1992年、ボスニア内戦がはじまって以来、この民族紛争をテーマにした作品がいくつか出品されるようになるが、どれもボスニア寄りの立場をとりながら迫っていこうとする傾向があった。しかし、「アンダーグラウンド」の興味深い点は、まさにセルビアの首都ベオグラードが舞台とされ、内側から発せられた叫びを描いているところだ。その為クストリッツァを「セルビア支持者」と指弾する声も少なくなかった。しかし、である。
「時は1941年、戦禍のベオグラードを逃れ、地下に潜伏する人々がいた。武器商人マルコにだまされ、「レジスタンス」の名のもとに武器を作り続ける。戦争が終わってもこの誇り高き労働は終わらなかった。ナチが去り、チトーの社会主義の時代を迎えても、マルコは裏切り続けた。この戦争に終わりがない、と。そして50年後の1991年モアンダーグラウンドモの住人が地上へ出た時、ようやく「祖国ユーゴスラウ゛ィアが失われていた」屈辱的な真実を知る。ジプシーの楽隊のメロデイーは空に舞う、人々は躍り続ける・・・・哀しみを、そして自らを笑い飛ばすがごとく。」(「アンダーグラウンド」パンフレットより)
このような、善と悪の図式をずたずたに引き裂く、極端で過激な設定は、立場をとらないアナーキストとしてクストリッツァを位置づけられないだろうか。ラストでは、セルビア人のパルチザン伝説の象徴ともいうべき地下場を、ばかげた夢物語として嘲笑するとともに、みごとに鈍い爆発音を上げて粉々にしてしまったのだから。ナチス・ドイツ軍と、独、伊、ブルガリア、ハンガリ―等の連合軍や、チェトニク(セルビア民族主義武装組織)、ウスタシャ(クロアチア民族主義武装組織)などの国内の敵から重包囲され苦戦を強いられながら戦う武器に窮乏していたチトーの軍と民衆は、独力で山をくりぬいて地下工場をつくり、武器弾薬の製造に乗り出した。結果、見事奇跡的に敵軍を破り勝利することができた。いわば地下は、英雄たちの息づく聖域であり、抵抗精神の在りかであったのだ。
クストリッツァは、この映画で「自分のバロキズムによってどこまで到達できるか限界に挑んだ」といっている。バロックとはいかなる定義をさすのか。ニーベルシュッツの言葉を借りれば、バロックとは「魅惑的な表面が揺れつつ深みを覆い、悲哀のうえには幸福がたわむれ、憂鬱の只中にも自己を当てこする笑いがあり、それでも時折思わぬ瞬間に、まるでリスボン地震の予兆のようにして、底知れぬ陰鬱の予感が現れる。」ものである。
1章に記した実例のメディア戦争が語るとおり、戦争という絶えず変化し続ける状況を、一つの視点一つの声で語ることが難しいと、クストリッツァは日々感じていたのだろうか。つまりバロックとは、一義的には解釈できないパラドックスの複合体なのである。この映画の構造においては、一つのことが別のことを必然的に導くという探偵小説のような直線的構造に従う義務はなく、異質なものを混交し、語りを円環状に保てる自由があるのだ。
それは、バラエティーに富んだ人物を登場させることで効果を与えているといえる。50年もの間地下の住人をだまし続ける、人を操る天才マルコ。ヤチトーヤと聞いただけで行進してしまうイデオロギーに盲従するクロ。ころころと都合よく男についていく元舞台女優のマドンナ、ナタリア。そして、主要登場人物の中、唯一監督の意を持ち合わせたと考えられる、マルコの弟で動物園の守衛、イヴァン。特徴的なのは、彼らそれぞれが時代の流れや刹那に移り変わる状況によって、めくるめく早さで七変化していく様だ。単純な善悪の区別がつかない、多面的な人物として登場させることに意味がある。
マルコは、完全な悪党ではない。祖国の現状を心から嘆いているし、犯罪者である自分を憐れんでもいる。しかし、はじめは、ナタリアを手にしたいという実存的な欲望からはじまった犯罪行為が、時代の流れと交錯して抜け出せなくなり、不本意なまま自ら極悪人へと化していくのである。クロは、妻が死んだら悲しむ間もなく若く美しいナタリアを追いかけ、彼女をナチの男から奪い返すために過激なまでの破天荒ぶりを発揮する。マルコに騙され地下の住人となってからは、しばらく大人しく療養し、地上に出てからは戦争が終わったことも知らずに大暴れする。マルコを、そしてイデオロギーを真っ向から信じ盲進して行く様は、一生懸命であればある程切なさを誘う。信じているものに忠実である為、虚偽的なこの世界(実際ここではマルコが歴史を操作している)では、その都度躍らされてしまうのだ。
ナタリアは典型的な調子のいい女である。最初は自分の身の安全を保障してくれるナチスの男を選ぶ。次は献身的なクロとなら幸せになれると思う。そして、結局は悪党のマルコに屈してしまう。彼女の気移りの早さには唖然としてしまうが、そこまで悪女には映らない。それぞれにそれなりに愛情を持っていたからか。両親がおらず、足の悪い弟を一人で養っているという不幸が、暗い時代背景によって強調されるからだろうか。
そしてイヴァンである。最も純粋無垢な彼が、ラストでマルコを滅多打ちにしようとは誰が想像できようか。このように、時代の流れと共に登場人物は予想もつかないさまに変化していくのである。
つまり映画全体を形作るマクロな面、ストーリー展開や構成などは、このように複合的、バロック的な登場人物の位置付け、関係、それぞれの性質などのミクロな諸要素を内側に含むことによって、それ自体がバロック的なものとなり得るのである。バロックの要素を持つものの集合体がバロック的なのは必然であろうが、このように外側だけではなく、内側の細部にまで複合的な可能性を持つスタイルが「バロック」である。このようなものを理解するには、外側からも内側からも、何通りものあらゆる角度からじっくり見つめることが重要だろう。
ではなぜ、クストリッツァはこのようなバロキズムにこだわったのであろうか。「一つの国家、二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国、七つの国境」という、旧ユーゴの多数性と、この戦争を引き起こした複合的に絡み合う要因が、クストリッツァにこのような映画を撮らせたことは頷ける。だがクストリッツァはこのユーゴという国を、そしてこの解明の困難な複雑化した戦争を、特別なものとみなしてはいなかったのではないだろうか。しかしユーゴは、希望を託したチトーの共産党の崩壊と多発する民族問題によって、「終末論的」で「熱狂的」だった社会主義というひとつの牧歌的理想を喪失する。そしてなんとも言い難い虚しさ、やりきれなさ、絶望の中に投げ出されるのである。
チェコの亡命作家ミラン・クンデラは、「東ヨーロッパ」が誰の目にも不動のものとして映っていた1980年代前半に、「誘拐された西欧―あるいは中央ヨーロッパの悲劇」と題した挑発的なエッセイを発表した。そこで自らの祖国チェコを、そしてハンガリーやポーランドを「東欧」ではなく、「中欧」として位置づける。
1918年から1938年にかけての両次大戦間時代を最後に、西欧であった国々は東へと追いやられることになる。しかし、「政治システムからすれば東側、その文化的歴史からすれば西欧である」ために、「誘拐された西欧」つまり「中欧」である、とクンデラは語っているのだ。その見解からすると、ユーゴスラヴィアはクロアチアやスロベニアなど「中欧」に位置する共和国と、地理的にも文化的にも東側に属す、セルビアやマケドニアなどの共和国が一つになった、ヨーロッパの縮図ともとれる複雑な国家である。
「小民族とは、存在そのものが、いつ脅かされるかわからず、消滅してしまうこともありうる民族であり、またそのことを自覚している民族である。フランス人、ロシア人、イギリス人には、自分の民族が存続し得るかどうかなどと自問したりする習慣はない。彼らの国家はひたすら、その栄華と不滅をうたっている。・・・・・・」
しかし、権力がいくつかの大国の手に集中しがちな現代世界においては、ヨーロッパのどんな民族もたちまち小民族と化し、同じ宿命に甘んじなければならない恐れはある。その意味で、中央ヨーロッパの運命はヨーロッパ全体の運命の前触れとなり、その文化は、にわかに大きな今日的課題をはらんだものとなる。
「忘れないようにしよう。‘歴史’それ自体に対抗することによってのみ、私たちは今日の歴史に対抗することができるのだ。」この言葉をクンデラは中欧ヨーロッパの入り口に刻む。
クンデラの小説の背景には、このように‘歴史’に幻滅した犠牲者、アウトサイダーたちが体現する、‘歴史’の裏側が存在する。しかし彼の小説は、小民族・小国民の存在の主張や「中央ヨーロッパ」の文化を代表しているわけではない。彼は、小民族・小国民によって、大国民ヨーロッパの真の対照をなす、いくつもの別の視線を発見したのである。つまり一元的世界像に対し、多元的な世界のイメージを提案することが真の目的なのである。その為に彼は「政治、道徳、集団」への帰属を徹底的に拒み、絶対的な宙づり状態としての「非―同化」を選択する。それを可能にするものがまさに芸術であり、彼にとっては小説であるのだ。彼は、自らの小説の定義を「主要な散文形式。この形式において作者は、さまざまな実験的自我(登場人物)を通し、実存のいくつかの重要な主題を徹底的に検証する。」と、している。この場合の「実存の重要な主題」とは、例え登場人物という想像的な個人であっても、実在可能な個人の日常的、具体的な生を通して検証されるのだから、単に私たち普通の個人の実生活に伴う諸問題と理解して構わない。「クンデラの小説はどれ一つとして、前作もしくは旧作と同じ形式、構成を持たず、常に新たな個人的・独創的な試みがなされる。(西永良成)」のである。統一性のない様々な登場人物が、偶発的な理由から絡み合い交錯しながら、予期せぬ展開へと物語を運んでいく。それはまるで、自らの意思とは無関係に何者かに操られ、無意識に流されていくかのごとく・・・・。クンデラは物語の内容や結末ではなく、この様な多様な存在の多様な生の在り方を繰り返し描くことに意味があると述べている。
こうしてみると、クストリッツァの「アンダーグラウンド」におけるバロキシズムは、クンデラの小説の技法に共通点を見つけられることがわかる。それは、先に述べた、多種多様な登場人物が混在し、それぞれがまるで別の人間にすり変わっていくような「単純図式化を許さ」ない点である。
クンデラ同様クストリッツァも、この映画の善悪つけにくい複雑なキャラクターを、またそれらを取り巻く背景を、「日常起こりうる普遍的なもの」として描きたかったのではないか、ということだ。人間の織り成すドラマは想像を絶するようなことも起こし得るということを。
「バロックとは、常に変貌するアイデンティティーを映し出す鏡にも似た、変化の芸術である。」と、ラテンアメリカの作家カルロス・フェンテスは著、「埋められた鏡」の中で述べている。
存在とは、あらゆる偶然によって不旋律に変貌していくものであり、解読不可能なそれらによって形成されていく世界があいまいであるのは当然である。クンデラもクストリッツァも、自らを取り巻く環境によってそれを意識せざるを得なかったのだろう。クストリッツァは多義的世界をそれらと同じ多義性を持つバロックという方法を用いて描いた。そしてクンデラはバロックという表現は意識して使っていないが、彼も偶発的に出現するモチーフの連なりによって、世界のあいまいさを描くのに成功した。彼のいう複雑なカーニヴァル的世界を、やはりカーニヴァル的な用法によって描いたのだ。クストリッツァの「バロック」とクンデラの「カーニヴァル」は、ほぼ同じ意味と解釈して構わないだろう。
かつてバフチンは、「カーニヴァル」とは「全民衆的世界感覚」であると述べている。「独断的で、与えられた実在や社会体制を絶対化しようとする一面的で陰気な公式的いかめしさ」から解き放つのが、正に「カーニヴァル的世界感覚」であるという。そしてその「カーニヴァル的態度」とは、「両極が純粋な二項対立から解放され、互いに触れ合い、知り合うこと」、つまり完全に自由な戯れのために、「それらの多義性と、通常の条件下では現れないで内にとどまっている可能性とが、明らかにされること」であるという。(「ラブレーとその世界」より)
これが在りのままの世界像だとしたら、このようなものを描くには、作り手から解放された完全に独立したものとして生かすことである。作者ですらそれらを操作することは許されない。彼らの描く物語が生命の輝きで満ち溢れているのは、作者の手から離れ自由に戯れることができるからだ。彼らの「バロック」、「カーニヴァル」という試みがそれを可能にしたのであった。
Writing in Summer/2001
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