アワーミュージック


 親知らズを抜くために半休を取るも、急きょ予定変更。ゴダールの「アワーミュージック」がモーニング一回きりの追加上映されていると知り、腫れ上がった顔面半分をぶらせげて劇場に駆けつける。人類の繰り返される愚行(夥しい殺戮の数々) が、モンタージュ映像によって畳み掛けるように降りそそぐ初めの10分。胸の痛みと共に親知らずもズキズキ痛み出す。

 ボスニア戦争で戦場となったかつてのヨーロッパの火薬庫、サラエヴォを舞台に、二十世紀の悲惨な記憶と解決不能と思える現代史の葛藤が繰り広げられる。サラエヴォに集まった詩人や作家、学生、ジャーナリスト、そしてゴダール本人の口から、イスラエルとパレスチナ、そしてユダヤとイスラムについての非対応性について繰り返しメタフォリックに語られていく。 真っ向から戦争に対峙するのではなく、政治の不平等、大国の一元主義について直接言及する わけでもないこの物語は、登場人物のそれぞれが、個々の立場からそれぞれの内なる声を響かせることで、一つの輪郭が縁取られていく。ユダヤ人ジャーナリスト、パレスチナ系詩人、ボスニアの大使、ネイティブアメリカン、フランス系ユダヤ人の女学生の声、声、声・・・レヴィナスの思想、ランボーの詩、ゴイティソーロの「サラエボノート」。夥しい引用と隠喩が彼らの内なる声と共に多重奏のように響き渡る。

 20世紀の戦争は、生身の殺戮だけではなく、一方では人々の文化や慣習、言葉をも同時に奪う「記憶の殺戮」だったといえる。ゴダールはこの争いに対し、闘争によってではなく、人々の「記憶」を喚起するという方法で戦いを挑んだのだ。埋もれた書物に記憶の源泉を探り、封じられていた言葉に息吹を吹き込み、登場人物の過去の記憶をそれに呼応するように響かせる。絡まった記憶の糸をたぐるように解いていくこの映画こそ、ゴダールのいう「政治的に映画を撮る」ということなのかもしれない。一つのメッセージを提示するような戦争映画や政治映画では、複雑な民族問題を語りきることは不可能なのだろう。

 従来のゴダール作品では、観客はうまく流れに乗ったかと思えば、突然ガタガタと脱輪してしまうように箍が外れてしまう感覚に陥る。テンポの速い切り返しと予想外のはぐらかしに困惑し、そして、突然物語から放り出されてしまう。疎外感がきまって残る。それは、単純解釈を拒む彼の手法の一つでもあった。 けれど、今回は何かが違った気がする。決して穏やかな内容ではないこの映画が、けれども不思議な光に包まれているように感じるのは、映像と音楽と個々のセリフが静かに溶け合っていくような、滞りのない緩やかな流れを育んでいたからかもしれない。「アワーミュージック」というタイトルに込められたゴダールの思いが、映画全体に溶け出して彩りと光を放っていたのだろう。

 それじゃあ「アワーミュージック」とは?
私なりの解釈をつけるとすると、憎しみ合う民族同士に残された、最後の和解への道なのではないか。理解するという生易しい換言ではなくて、理解できなくても、ただ互いの存在を肯定するという人類究極の赦し。けん制状態の中の寛容とでもいうのだろうか。それは相手の声を遮るのでも封じ込めるのでもなく、耳を傾けるというだけのこと。そして互いの声を共鳴させ、共に奏でることで一つの調和が保てるのではないだろうか。

最後にこの映画のヒロイン、オルガにこれらの言葉を捧げたい。

「現実にある近代世界を感じ取り、褒め称えるには、
自分の幸福を犠牲にしても、われわれをある特定の
場所につなぎとめるあらゆる関係を断ち切り、地球の
表面を旅人して生きなければならない。」
W.H.オーデン


                                            

Writing in Spring/2006
 
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