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熱狂者たち
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今回の総選挙は、空騒ぎにも似た浮かれた空疎さが全体的に漂っていたように思う。報道のされ方や出馬陣営のパフォーマンス、国民の反応のどれを取っても、内実のない一過性の祭り気分という印象を与えられた。
ある番組で臨床心理学者の方が、小泉首相の態度を「熱狂者」にあてはめ弁明していた。声を荒げ、髪を振り乱し、頑ななまでの大義名分を振りかざして演説する様は、熱狂的な態度を振る舞い、国民をその熱狂の渦に巻き込んでいくような強権的パフォーマンスであったのだと。今回の選挙結果やその過程のフィーバー振りからして、私自身も上記するような印象を受けた。
ここでは、自民党や小泉首相、またその他の政党についての具体的な言及はあえて避けるとする。それぞれの立場で各政党を選択する権利があるのだから、プロパガンダにつながるような意見をするつもりはない。ただ、今回の総選挙では、特に小泉氏率いる自民党や、彼らを取り巻く報道陣が作為的にそのような状況を作り、それに無頓着に飛びつく人々という構図が顕著にあらわれていた事を危険視する。際立ったパフォーマンスや、小泉劇場などという茶化したような面白おかしい演出や報道に、若い世代や政治に関心のない人々はイベントのごとく飛びつくだろうことは想像できる。国の将来のみならず、自らの暮しやひいては命にかかわるようなシビアな選択を迫られる際、私たちは何を信じ、誰の声に耳を傾けるべきなのかということを、有権者である国民一人一人がもっと真剣に考えるべきなのではないかと思う。自分で考える意思を持たない者は、荒波に飲まれやすく、流され、気づいたら意図しないところへ漂着してしまうものだ。
では、理性ある理想高き有権者はどうであろうか。ここでは、そのように自負している人々でさえ、熱狂の渦の中では理性を危ぶまれていく危険性を、声高に主張したい。
大げさな例を挙げると、かつて国民から熱狂的なまでに支持され、人々は疑いなく幸福の時代の到来を信じ、圧倒的な忠誠を誓った君主に、かの独裁者アドルフ・ヒトラーやスターリンの名前が挙がることを考えてみたらどうだろうか。熱狂の渦の中では、人々は昂揚し、恐ろしい時代の幕開けに気がつくこともなくその予兆のかけらさえ見落としてしまうのだ。
今朝の朝日新聞に、ヒトラーの「わが闘争」を抜粋した興味深いコラムが掲載されていた。
以下抜粋。
「大衆の理解力は小さいが、忘却力は大きい。彼らは熟慮よりも感情で考え方や行動を決める。その感情も単純であり、彼らが望むのは「肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽か」のわかりやすさだ。民衆はどんな時代でも、敵に対する容赦のない攻撃を加えることの中に自分の正義の証明を見出す。肝要なのは、敵をひとつに絞り、それに向けて憎悪をかきたてることだ。言葉は短く、断定と繰り返しが必要だともいう。
中略
大衆は愚鈍だから「小さなうそより大きなうそにだまされやすい」と言い切る。世界の「悪」をすべてユダヤ人のせいにし、ひたすら「アーリア人の優越」をふりかざした彼は、微細なまでに政治技術を磨きつつ、大きなうそで人々を幻惑したのだった。
中略
たしかに彼は人間の弱さ、卑小さを熟知していた。その弱さに徹底的につけいって権力を握り、政治の邪悪さを極限にまで拡大してみせた男だった。」 (「時の墓碑銘」小池民男 朝日新聞9月26日朝刊より)
ヒトラーの策略に陥った人々の心理とは、人間の本来の姿といえるだろう。では、そんな人間心理につけ込まれる時、私たちはどうするべきなのか。
亡命作家ミラン・クンデラが、小説の中で、かつての共産主義体制下の人々を熱狂者として疑問視し、重要な問いを投げかけている。これは、今回の総選挙のみならず、あらゆる個々人にとって大事な問いかけであるように思う。以下に抜粋したい。
「中部ヨーロッパの共産主義体制は、犯罪者によって作り上げたもの以外のなにものでもないと考えるひとたちは、根本的真実をみのがしている。犯罪的体制を作ったのは犯罪者ではなく、天国に通ずる唯一の道を見出したと確信する熱狂的な人びとである。その人たちは勇敢にその道を守り、それがために多くの人びとを処刑した。後になって、そんな天国は存在せず、熱狂的であった人びとはすなわち殺人者であることが誰の目にも明らかになった。そのときになって人びとはみな共産主義に向かって叫び始めた。あなたがたが国の不幸(貧しくなり、そして、荒廃した)に、独立の喪失(ロシアの手に落ちた)に、不正な判決による処刑に責任がある!告発された者たちは答えた。われわれは知らなかった!われわれは欺かれた!われわれは信じていたのだ!われわれは心の底から無罪である! 争いは結局次の一点に集中した。本当に知らなかったのか?それとも、知らなかったふりをしていたのか?」
このような世論が飛び交う中、主人公トマーシュは、共産党員やそれに熱狂する人びとの中に、革命後のロシアでおこり、今でも続いている恐怖について知らないはずのない人びとは必ずいたであろうし、またそれらの人びとのうち大勢が知らなかったこともあり得る、と考える。知っていたか、知らなかったかは根本の問題ではないとして、こう自分に言い放つのだ。
「知らないからその人が無罪?というのなら、玉座にいるばかは、ばかであるがゆえに、あらゆる罪から解放されるのであろうか?無実の人に死刑を求刑した50年代初頭のチェコの検察官は、ロシアの秘密警察と自国の政府に欺かれたのかもしれない。しかし、告発がばかげたことで、処刑された者が無罪であることをわれわれがすでに知っている今日、その同じ検察官が自分の心の純粋さを弁護し、胸をたたいて、私の良心には一点の曇りもない、私は知らなかったのだ、私は無実だとどうして主張することができよう!その男の、「知りませんでした!信じていました!」というそのことに、取り返しのつかない罪があるのではないだろうか?」と。 「存在の耐えられない軽さ」(第」部「軽さと重さ」より
「知らなかった」という結果は、私たちが物事を一元化してみることで、陥りやすいトラップなのではないだろうか?未来に何が起こるかなんて誰にも分らない。そんな未経験の惑星に生きる私たちは、全てを熟知し予測することは不可能だ。だからこそ、熱狂ではなく冷静さが必要だ。まず外部に対して、そして自分自身にも疑問の声を投げかけること。それから、あらゆる可能性を示唆することで養われる、複眼的視野。それこそ、「小さなうそより大きなうそにだまされやすい」私たちに、千里眼を与えてくれる唯一の手段なのではないかと思う。
Writing in Summer/2005
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