「おちょこ」

 
「今日はおちょこになっていい傘持っていくわ。」そういいながら、母親は出かけて行った。斜から雨の降りしきる、風の強い日のことだ。「おちょこになる」という表現はたまに使っていたけれど、実はちゃんとした意味や語源を知らなかった。「ダメになる」「使いものにならなくなる」というようなニュアンスで使っていたと思う。でもそういえば、傘とセットでしか耳にしないなあと気になった。辞書を引いてみると、〔さしていた傘が、風のあおりを受けて逆の方向を向く〕とあった。なるほど、ことば通りの意味だったのかと、改めてものすごい発見をしたような気がした。日本人だから日本語が話せて当たり前なのだが、実は母国語こそ大本の意味や使われ方を知らないで、乱用してしまう危険性があるのかもしれない。
 
 ドイツ語で書く作家、多和田葉子が以前興味深いことを言っていた。「ドイツ語は、大人になってから自分で勉強して覚えた言葉だから、この単語の語源や響きがものすごく好きだとか、この言い回しは苦手だとか、言葉に対する執着がある。一方日本語は、自分で選択したわけではなく、無抵抗な赤ん坊のときに刷り込まれ、いわば自分の意志とは関係ないところで身についていった言葉である。」と。確かにそうだ。物心ついた時には、目に見えるものや状態全てに名称があり、この世は完成された世界のように思えた。まず、視覚や触覚を通して存在を捉えたものを、与えられた名称にあてはめるという作業を強いられる。それはぼんやりとしたあやふやな世界に散らばる未知なる破片が、がっちりと束ねられ、二度と外れることのない言語という名の鍵をかけられる瞬間だ。けれども後に、この鍵は取り外しが自由であることを知り、幼心に狐につままれたような気持ちになるのではないか。しかしながら、私たちは長年使い古した言葉に、無意識に再び鍵をかけてしまう。たまには習慣という言葉を脇に置き、馴染みのある言葉を疑ってみる必要がありそうだ。
 例えば、蛇口をひねって出てくるものには2種類あって、冷たい方が水、熱い方がお湯。名前が違うから二つは別のものだと区別する。けれど、英語では熱いか冷たいかの差はあれど、はじめから同じwaterだ。言葉の差異から、私たちが水とお湯が元は同じものだと学習するのは、英語圏の赤ん坊より先になるだろう。また、フランスには「犬」も「狸」も存在しないそうだ。それらはいずれも「chien]と呼ばれているので、日本語での「犬」と「狸」にあてはまる動物は存在しないことになる。改めて、名付けることからはじまる言葉の曖昧さを意識させられるエピソードだ。
 世界は、そんな曖昧なことばが基盤となって形成されているのだ。そう考えると、くっきりと視界を被う景色は、だんだんおぼろげに霞んでいくではないか。
writing in Summer/2005
©copyright2007 tamayula All rights reserved.