「赤の記憶」

 大切なものをなくしてしまった。 母からもらった、真っ赤な枝サンゴのピアスを片方。 この春、母が祖母を連れ沖縄に移住した兄を訪ねた。その折のお土産だった。丸く研磨加工してあるものはよく見かけるけれど、サンゴの形をそのまま生かしたものは珍しいからといって、先頃終えたばかりの旅をすでに懐かしんでいるかのような、恍惚とした表情で小さなケースを手渡してくれた。箱を開けると、とんがらしのようなものが二つおさまっていた。けれど手にしてみると、それは脆く、そおっと扱わないと手の中で崩れてしまいそうな程繊細な作りをしていた。
 それだから、出番の日は取り外しに神経質なほど気を使ったし、帰宅するとまず専用のプラスチックケースにおさめ、それからやっと安堵のため息をつくのが常だった。 「耳にとんがらし付けてるかと思った」、冗談めいた愛嬌ある姿ゆえに、そんな風によくネタになったけれど、その度に「これ、サンゴなんだよ。」と少し誇らしげにいうのも、 取扱いの困難なこの脆さが所以していたと思う。
  
 けれど、その日は油断していた。慣れたころが危ないとよく聞くけれど、まさに その通りだ。洗顔の時、一瞬の気の迷いから外すのを怠ってしまった。そして、鏡に映った二つのとんがらしを確認したのが最後になってしまったのだ。すっかり外すのを忘れたままベッドに横になり、友人から借りたばかりの本に没頭していた。なんかだか嫌な予感がよぎり、跳ね起きて両耳に手をあてた時は既に時遅し。 片方の手には枝サンゴのざらついた感触はなく、耳たぶにはさっきまで何か引っ掛かっていたという余韻だけが残っていた。頭が真っ白になり、とにかく慌てて枕や布団をひっくり返したけれど見当たらず、考えられる洗面所から部屋までのスペースを隈なく探したけれど出てこなかった。懐中電燈を持ち出しベッドの下を照らし出した。けれど、大切なとんがらしは一向に見つからず、睡魔と疲労から、家捜しもだんだんおざなりになっていった。家で物を無くしたときは本当に引き際が難しい。根を上げそうになった時、「魔法が解けるまでひとまず寝て待ちましょうか。」 と、天からの声が聞こえた気がしたので、ひとまず眠ることにした。
  
 出てこないはずはないのに、どんなに探しても出てこないという経験がよくある。頭が煮つまると、簡単に探せるものも探し出せなくなるのだろうか。ちょっとした閃きのように、思いがけない所でふいにポッと出てくるものなのかもしれない。結局、次の朝も魔法は解けることなく、依然プラスチックケースの中には行方不明の相方を待つもう片方の姿が、ぽつねんと佇んでいた。ペアで一組のものは、片一方がなくなると困ってしまう。手袋や靴下などもそうだ。同じ物を買っても、結局一つあぶれてしまうので、取り残された2分の1が無価値なままタンスの中で眠る事になるのだ。そして、それらを目にする度になくなったもう一方の存在が亡霊のようにつきまとうことになる。隣のおじさんが可愛がっていた、つがいのインコもそうだった。片方(オスの方だったか?)が逃げて行方不明になってから数年経っても、残されたピイちゃんの影には、もう一方の存在が映っているようだった。

 このような、2分の1ゆえの切ない悲話を展開するつもりで、つい数週間前メモ帖に走り書きしたのだ。ところが、忘れようはずもないとんがらしピアスの存在を、私はすっかり忘れて過ごしていたのだった。目につくところで、もう片方がさびしそうに何かサインを送っていたかもしれないけれど、日々他のことに気を取られていて全く目に入らなかった。あんなに固執していたにもかかわらず、記憶からすっかり 抜け落ちてしまうなんて。私はこうやって、大事な事をどんどん忘れていってしまうのだろうか。

 今日、何故ピアスのことを思い出したかというと、とんがらしのピアスに似た真っ赤なニットを着ていたからだ。ペンを走らせる腕を何気なく見たら、袖の赤から、突如小さな形がぼおっと浮かび上がってきた。忘れていた形がだんだん鮮明になり、ハッとしたのだ。ケースの中の無くしたそれの分身ではなく、関係ないものから記憶が立ち上がってくることに、ただの偶然とは思えない何かが漂っているように感じた。この場合、同種の赤、例えば私とは関係なく思える仏頂面して向かいの座席に座るOLの真紅の口元、もしくは、珍しく手紙を出しに出向いて行った先の、その四角いボックスの塗料の赤。そんな赤に触発されて、大切な真っ赤なピアスを回顧していたかもしれない。
 色や形や匂いの中で、まるで暗号のようにひっそりと、懐かしい何かが沈黙のことばを語りかけているような、そんな気がしてならない。記憶は消えてしまっても、記憶の分子がそこら中に散りばめられ、どこかに宿り尚も灯りつづけているのかもしれない。再び記憶の回路にビリビリ電流が走るのを、身を潜めて待っているのだろう。 見逃さないでいたい、静かなサインの数々を。赤いニット、赤い影、赤いペン先、赤のとんがらし、サンゴの赤・・・etc・・赤の追想。
writing in Winter/2005
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